渋沢の原点は幕府の否定ではなく、日本文化の否定ではなかったのか
先日私のお茶の先生から、渋沢栄一の面白い話を聞いた。
熊倉功夫著「近代数寄者の茶の湯」の中に出てくる話だ。
この本の中で、渋沢と並ぶ明治維新時代の大実業家である増田孝の逸話が書かれている。増田孝は渋沢とほぼ同じ時期に生まれ、幼少から父親の進めもあり、英語を学び、その後、父と共に海外使節団として欧州に行き見聞を広めてきた。そして明治政府では渋沢と同じように大蔵省で働き、その後商店経営をはじめ、今日の三井財閥を作った大実業家である。
渋沢との共通点としては、若い時に欧州視察での経験を生かして、自らのビジネスチャンスを掴んだこと。得意の語学を生かして貿易の商売を始めたこと。多くの企業グループを作ったこと。90歳まで長生きしたこと。などである。
しかし大きく違うことが一つある。
それが茶の湯に対する考え方だ。
増田孝は増田鈍翁と言われるように、江戸時代が終わ李、同時に廃れた日本文化、遊芸などの復興に大きな貢献をした人物である。また自らも数寄者と言われるような茶人であった。
この本の中で、1897年ごろに増田孝(当時49歳)が渋沢栄一(当時57歳)が金沢を視察して帰ってきた報告をするために、料亭の2階に増田他数人を呼んだのである。渋沢は増田よりも8歳年上でありそういう関係であったのであろう。
そこで、渋沢は金沢を評して、茶の湯が盛んでどこに行っても茶の話や茶道具などを見せられて困ったと。まずこういう茶の湯の風習を打ち壊さないといけないと説いたそうである。
そんな時に増田は1階から客人だと呼び出しされた。1階には増田がお気に入りの道具商が来ており、大名物の釜が手に入ったと伝えにきた。増田にとってはとても興味深いもので色々と話を聞いていると、2階から渋沢に呼ばれてまた2階に行き、茶の湯がいかに日本をダメにしているのかを聞かされたと。こうして増田は渋沢と道具商の間を行ったり来たりしたとの逸話が書かれていた。
このように増田は実業家としては渋沢と同じく、欧州の合理主義、効率主義で事業を拡大した一方で、実は日本文化の守り続けたのである。
一方、渋沢は文明開花=西洋文化であり、それまでの日本文化を否定してきたのである。確かにそれも一理あると言える。しかし、同じような環境の中で、事業を進めてきた実業家でも文化に対しての知見や考え方は大きく分かれるものだと感じる。
この本で熊倉氏が言うのは、「近代化を単純に西欧化と捉えてしまうのは、第二次世界大戦後の歴史学が犯したとんでもない間違いではなかったか。明治の近代化は、西洋的近代化と伝統的な価値観の両者にしっかりと両足を下ろしていたのである」と述べている。
これは今の日本の経営者にも当てはまるのではないだろうか。
金儲けとする時は必死に稼ぐが、文化芸術を楽しむ時間もしっかりと作る。このバランスが求められているように思える。
SDGSはまさにその流れから出てきたようにも思える。