奇跡を起こさない論語が一番信頼できる!
最近、論語と算盤が人気だ。私も大河ドラマを楽しみに見ている。
しかし、30代のジェネレーションZ世代にはこの毎週日曜日20時からというのが面倒くさくて、見る気も起こらないそうだ。
NetflixやYouTubeに慣れているZ世代には自らがTV番組のスケジュールに自分を合わさないといけないのが耐えられないそうだ。
また、気に入ったドラマは一気に見たいということなので、毎週録画というのもかったるいそうである。
こういうところにどうアジャストしていくのかがマーケティング戦略で、最も大事なポイントである。
さて、私は6月ぐらいから論語と算盤をテーマにした講座を始める予定であり、そのために最近色々と澁澤栄一の文献を読んでいるが、今日はその中で彼の論議に対する信頼度の厚さを示すエピソードを述べたい。
彼は道徳の考え方を論語を作った孔子に求めている。しかしキリストやお釈迦様も同じようなことを述べている。まあ、簡単に言えば大体の宗教は道徳概念で言えばほぼ同じであると言っても良いだろう。
しかし、渋沢が言うには多くの宗教には必ずいくつかの奇蹟があるという。キリストも復活をしているし、お釈迦様は病人をすぐに治癒させている。このような奇蹟を彼はひどく嫌う。
キリストを信ずることは奇蹟も信ずることであり、そうなると世の中には必ず奇蹟があるのだとなってしまう。それでは物事を筋道を立てて考えることができないと彼は言う。
しかし論語には全く奇蹟は出てこない。あくまでも人の生き方、ものの考え方を示しているだけある。孔子様は素晴らしい人だが、奇蹟は起こしていない。だから信ずることができると言うのが澁澤の考え方で、ああなるほどと私は思った。
人間、不安や苦悩を解決するのに、何か奇蹟めいたこと、神様の存在や宇宙パワーなどを信じてみたくなるものだ。だからこそ宗教というものは存在しているのかも知れない。
しかし、彼はそうではなく、あくまでも自分がどう生きていくのかをしっかりと見つめることが大切だと説いている。彼は精神的に強い人間であり、宗教に頼らなくても生きていける人間だったのだ。
論語と算盤の中で、澁澤は欧米人の道徳は宗教をベースにしていて、キリスト教の教えがそのまま生き方の基本となっていると。宗教が生活の一部なのだ。しかし、澁澤が生きた江戸、明治、大正、昭和の時代、日本には道徳概念の基本となる宗教は存在しておらず、そこに問題があると述べている。
だから論語を皆んなが活用すべきだと言いたいのである。江戸時代の論語は武士に向けた学問であり、また朱子学が全盛であり、やはりものの考え方が彼の言うところの論語とは少し違っていた。
このことは今の日本人にもぴったりとあてはまる問題であり、生活、技術は進化しても、人の考え方は変わらないなあと思うところだ。
いくらZ世代の行動パターンが違っても、価値観、道徳感と言うものは明治時代から、あまり変わっていないのかも知れない。