若い時にもっと失敗すべきだったのか??

最近、家族からよく言われることがあります。
「あなたはこれまであまり苦労せずに人生を過ごしてきたんではないですか?中学、高校受験には失敗したけど、大学では志望校以上のところに行けたし、会社もまあ希望ではなかったところに入ったけど、その後は順調に行って、最年少で役員にまでなった。結婚では一度失敗してるけども、それもまあ今ではよくある事だし。今、振り返るとあなたのこれまでの人生は順調そのものだった。早い段階でもっといろんな失敗をして痛い目にあった方がよかったんじゃないの。」
私自身ではこれまでいろんな局面で辛い目にもあったと思いますし、苦労もしてきたつもりです。でもまあこう言われるとそうかなと思ったりもします。
前回、お話したように42歳でアメリカに一人で行き、予想はしていましたが、英語に苦労しながら、若くて自分よりも優秀な学生と一緒に勉強する事で自分のそれまでにプライドは無くなりました。

でも今思うと、復職した時に、また変なプライドが生まれたように思います。
復帰した時に会社に戻ると、何もかもが古くて、スピード感もない、このままではこの会社はダメになるという気持ちを強く持ちました。しかし一方で社員のみんなの意識は昔の自分と同じでグローバルでもなく、やはり井の中の蛙の人が大半でした。で、自分がやらないと行けないと感じ、その当時社内の人に偉そうなことを言ってたように思います。
その時、自分は周りの人に対して少し、優越的な気持ちを持ったように思います。
確かに、社会全体で見れば自分は全く大したことのない社会人と自覚はしていたのですが、会社の中では自分のような意識と知識を持った人はいないのではないかと考えるようになったかもしれません。
これが今思えば、自分の浅はかな考え、傲慢さでした。

いくら頭が良くても、知識や経験をたくさん持っていても、だからと言って優れた経営者にはなれませんし、人格者とはほど遠いのです。東大、京大よりもハーバード、プリンストンの方が断然上という世界を見ながら、それでもすごい奴は確実にいるのです。では何が社会、会社を大きく動かす、変革する力になるのでしょう。


私はもっと徳を積むことが必要でした。
自分は少し米国のエリートのグループに触れる事で、なんとなくその気分を味わっただけなのに、それを自分とシンクロさせてしまったのかもしれません。
徳とは己をきちんと知った上で、相手を知り、相手の良い点を見つけて、それを認め、自分の糧にしていくことであり、基本は相手を尊敬することから始まるように思います。
まあ、徳とは何かは私ごときが偉そうに定義することではありませんので、これくらいにしますが、やはり徳を積んでいる人はどこか違います。

ビジネススクールに行った事で一番よかったのは勉強するクセはできました。まあ、いうほどできていませんが。
でもMBAで徳を積む事は勉強しなかったように思います。
失敗してこそ、その人の気持ちがわかるし、常に相手の立場に立って物を考えなさいと伝えてきましたが、じゃあ、解雇された人の気持ちはなってみないと分かりません。
そういう意味で言えば、やはり私は40代後半ぐらいで失敗をして、自分を見つめ直すべきだったのかもしれません。
でもその時は、今から思えばイケイケドンドンみたいな時でした。
これまでの人生では、40代後半から50代前半までが輝いていたかもしれません。
でもその輝きは本当に輝きではなく、自己満足だったのではないかと感じています。ちっちゃい自分だったなと改めて思います。

「人生のやり直しはいつからでも遅くはない」と言われます。確かにそうです。
今、お茶のお稽古に通っています。このお茶のお稽古も終わりのない勉強であり、いつから始めても良いと言われます。で、続けることが大切と言われてます。
では私は次の人生、今から何を始めて行けば良いのか。
これが大きな問題であり、チャレンジなのです。
もっと失敗しておけば良かったかもしれません、でもまだ、これからやれることはたくさんあるんだということを感じています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です