これからの百貨店の生きる道のヒントはラグジュアリーブランドにあり

リアル店舗の重要性を最も活用できているのはラグジュアリーブランドだ

先日の中国のサイトに興味深い記事があった。

実店舗の高級ブランドショップに投資すべき4つの理由

ここでのポイントは以下だ

1、販売員とのコミュニケーションや、商品を見たり触ったりできることは、ラグジュアリーな体験に欠かせない要素であること

2、説得力のあるラグジュアリー・ストーリーは、店舗での強力なブランド体験を構築することで実現できる

3、お客様は、店頭での受け取りやオンラインでの購入/店頭での受け取りという選択肢がもたらす快適さや利便性を高く評価しいる

コロナ禍の今でもラグジュラリーブランドは堅調だ。その理由は所得の2極化が進み、富裕層の購買意欲が旅行、食事、エンターテイメントからブランド消費しかないということもある。

しかし、このラグジュアリーブランドをやはりお店で買いたいというエモーションは富裕層のみならず、一般顧客でも同じはずだ。

コロナ終息後は、家の巣ごもり消費における実利性、や価格重視ではなく、お買い物にエンターテイメント性、買い物することで得られるストレスの発散、非日常空間などが大事になってくるだろう。

今、田舎暮らしが注目されてる。それだからこそ、都会の百貨店や専門店は田舎にはない、品揃えと環境、サービスが求められる。

地方の百貨店でもやれることはある。都会の百貨店に行かずとも味わえる非日常性をいかに演出するかだ。

先日、銀座シックスのお得意様専用サロンに行く機会があった。ここでは普通の百貨店の外商サロンとはレベルが違っており、ダイナースなどのカード会社が設置していお得意様サロンよりもゴージャスだ。アルコールまでフリーで飲める。

空港でもJAL、ANAなどが利用頻度に応じてラウンジを設けているが、こういうお買い上げ金額に合わせたラウンジ、サービスの提供をさらにグレードアップすることが大切だ。

私が大阪に帰った時にお世話になる大丸心斎橋店にある小島眼鏡店では、これぞ真心のこもったサービスというのが味わえる。

社長の小島さんはおそらく5000名以上のお得意様の顔を覚えていらっしゃるのではないだろうか。有名になった帝国ホテルのエントランスのドアボーイを彷彿とさせる。あなたをいつも特別の存在として見ていますと思わせる何かを持っていらっしゃる。

確かにAIを使えば、顔認識で個人名で名前をお呼びすることはできるし、簡単な話もできるだろう。でもやはりズーム飲み会が面白くないのと同じだ。やはり人と人の触れ合いこそがこれからも求められるのだ。

百貨店はこれまでの大衆をターゲットにするのではなく、特定中数の顧客をターゲットにして、航空会社で言えば、常に上顧客を優遇するのを一般の人にもわかるようにして、どうぞこのサービスを受けたいなら、もっとうちの飛行機を利用してくださいとメッセージを送るべきだ。

ラグジュアリーブランドの顧客戦略を百貨店はしっかりと勉強する時だ!

昔の百貨店はこんなものをいち早く紹介していただろうな

ポータブル風力発電機

今日見つけた記事。

https://www.shineturbine.com/

カナダの会社が開発したポータブル風力発電機。240ドルで販売されているようだ。
アウトドアにも持っていけるし、非常用にも使える。

こういう商品って昔は百貨店がいち早く見つけていた時期もあったのだ。

でも今は商社でもなく、ベンチャー企業が直接ネットで販売している。
でも保証はないし、買った後のアフターサービスもない。

ここに何かマーケットチャンスがあるのかもしれない。

面白い商品を見せるだけの取り組みなら、丸井もすでにやってるが、結局場所貸し止まり。

やはり何か小売業としてのウイルが欲しい。

情報収集力ってどこが一番持っているのだろう?

そう言えば、昨日紹介された高機能マスク。

台湾製だが、性能はN95と同等らしい。しかもゴアテックス製でできているにもかかわらず、通気性がいいし、しかも洗って何度も使える。

ただ、色々と問題点もあるようだ。価格が高いのも一つ。
こういうのをうまく世の中に出すのはどの企業が一番上手いのか?

信用がなければ商売は続かない。信用しかない百貨店にはチャンスがあるかもしれない

性能と価格と信用のバランスがうまくつながらないとモノは売れない

千利休の給与はたった3000石だった

今、茶道の歴史という本を読んでいるが、その中で面白い事が書いてある。

千利休は天下一の茶人と認められる茶人であったが、秀吉からいただいた俸禄は3000石。利休切腹の後、秀吉の茶道頭を務めた古田織部は35000石、そのあとの小堀遠州、片桐石州はそれぞれ13000石ぐらいであった。

利休以外はみな武士であったのもあるが、当時の利休の影響力を考えると、甚だ少ない給与であった。

まあ、利休はそれ以外で十分稼いでいたとは思うが、武士の世界でいかに利休が実力だけでのし上がってきたのが分かる。

利休が武士でもないのに、切腹をさせてもらえたことなども、その例だろう。

その後、江戸時代になり、天下泰平の世になると、茶道頭の地位はますます低くなり、江戸時代末期だと10石程度だったらしい。

やはり、茶道で財を成すのは難しいということか。

顧問のお仕事

セカンドキャリアとしての顧問業とは

昨日、久しぶりに登録していた顧問を紹介する会社から電話があった。
地方の百貨店からの依頼で相当経営が厳しいとのこと。そして、支援をしている銀行がこの顧問の会社に食品のテナントを入れ替えたいので、テナントを紹介できる百貨店OBが欲しいととこのことで、色んな人に声をかけているとのことであった。

顧問先の会社には今回はお役に立てそうにないとお断りをし、電話を切った。

そして、思った。いったい自分の価値はなんだろうと。

顧問を紹介する会社といえば、聞こえはいいが結局は新しいテナントの紹介や新しい営業先の紹介などの仕事がほとんどだ。

私自身、自分の人脈はこういった営業では使いたくないと思っている。だからこういう会社に登録すること自体が間違っていたのかもしれない。

私は顧問とは、これまで培ってきた経営センスや知識、経験を新しい事業やプロジェクトに生かすために役立つものだと思っているが、なかなかそういう仕事はない。特にシニアとみなされる60歳以上には厳しい。

しかし、60歳でも70歳でも常に自己研鑽をし、情報のキャッチアップをっていれば、年は関係ないのだ。

でも今のデータベースには年齢は全て同じグルーピングになっているように思う。

一部の政治家、専門家、芸能人などが70歳になっても第1線で活躍している。

また中小企業に目を向ければ、いくらでも70歳の現役バリバリの経営者はいる。

なのに、今の人材派遣やベンチャー企業などではそういう認識を持っているところが少ないように感じる。やはりターゲットは大企業に勤めてきたサラリーマンが多いからだろう。

自らがどう自分の価値を創造していくのかは、自分自身でしかできないが、やはり長年サラリーマンをやってきた人たちには厳しい現実がある。

私もそうだったが、使いものにならないプライドがこびりついているのだ。私はありがたいことにこの2年で相当削ぎ落とされてきた。でもまだまだ残っていると思う。

自分のできること、自分に求められていること、自分のやりたいことを一致させるためには、やはりさらに自分を磨くことが必要だ。謙虚に自分を見つめ直すことができるかどうかだ。

昨日、近くのスーパーに行った時に70歳前後の男性に出会った。奥さんと一緒だが、買い物のカゴも持たず、ただ、奥さんの周りをウロウロしているだけ。しかし見るからに自分は偉かったんだぞというようなオーラが出まくっていた。身なりもスーパーに来るのに似合わないなんともいえない格好をしてる。だが、品は正直なかった。
私が通路を横切ろうとすると、通路の真ん中に彼がいたので、少し待っていたが、全く人に気を使う様子もなく、商品を見ていた。結局奥さんが促して、通ることが出来た。

次の人生はいつからでも遅くはないと言われる。

多くのシニアには昔のプライドだけを振り回すような生活はしないでいてほしい。

苦しみの中から何か新しいものが生まれてくる。それを信じて自己研鑽に励みたい。

論語マーケティングでコロナ対策を!!

コトラーのソーシャルマーケティングと論語を使えばうまくいく

今朝の日経新聞のコラムで田中編集員が、コトラーの提唱したソーシャルマーケティングを使ってワクチン接種ができないかとの提言をしていた。なんか違うなと違和感を覚えた。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGH20CJH0Q1A520C2000000/

この中では、社会問題の解決に向けて柔軟なマーケティング発想で問題解決をすべきだという例として、アメリカでのワクチン接種が駅や球場などで特典付きで行われていることあげている。一見するとこういう医療行為を無料でしかも特典をつけてまで行うことには日本人としては倫理的にどうかと思う人が多いのではないかと感じる。

しかし社会問題の解決においてはいろいろなアプローチが必要であり、NYでは若者の接種を促すためにマリファナをプレゼントする団体もあるようだ。

日本ではそもそもワクチン接種を受けたくても受けれない状況なので、今の時点ではアメリカと比較することは難しいが、今後ワクチン供給が増えて来た時に必ず前提のワクチン接種率がコロナ対策の一番の肝になる。集団免疫をいかに獲得するかである。

その時に有効な考え方を論語の中から紹介したい。

孔子曰く、之を導くに政を以てし、之を斉うるに刑を以てすれば、民免れて恥無し。之を導くに德を以てし、之を斉うるに礼を以てすれば、恥有りて且つ格る、と。


詳しくは下記のサイトを読んで欲しい。
https://kokugonomado.meijishoin.co.jp/posts/1488

ポイントは人を動かす時に規則や罰で動かそうとしても動かない、その人の道徳や気持ちに訴えることで初めて人は動くのであると。
考え方は北風と太陽の話と同じである。

今回の日本のコロナ対策はまさに、諸外国のような個人の自由を制限するロックダウンは法律上できない。また、潤沢な財源もないため休業補償も潤沢ではない。だから政府の対応は後手後手になっている。
そして自主的な国民一人一人の協力を求めているのだ。その政府、政治家の対応がどうも徳を以った行動とはいがたい。また礼を以ったものともいえない。だから心に響いていない。

日経のコラムでは若者の感染を抑えるために、若者でも感染したら症状が重症化したり、後遺症で悩んでいる人が多いことをSNSで拡散すべきと提言しているが、私にはそれは間違っているように思う。

このやり方は痛い思いをさせるだけで北風と同じである。

それよりも、若者の心に訴えかけることが大事だ。
家庭内感染で若者から老人に感染して死に至ることの悲惨さや社会が早く回復することの重要性を説くことが大切であろう。

東日本大震災の時にあれだけの若者がボランティアで無償協力をしてくれたことはさすが日本人と言えるところだ。

大震災よりも多くの犠牲者が出ている今こそ、リーダーは国民に向けたメッセージを徳と礼を以って行う時ではないだろうか!

コトラーのソーシャルマーケティングを使うということはそういうことである。

ターゲットに合わせた戦略を立てて、アメリカ人ならマリファナだろうが、日本人なら家族を守る大切さを徳のある人が、礼を以って話せばきっと若者にも理解してもらえると思う。

私が首相なら、星野源、新垣結衣夫妻にTV、SNSで若者に語りかけてもらうビデオメッセージを作る。徳のある政治家が少ないなら、徳のある芸能人、有名人を使うしかないのではないだろうか。

僧侶と大臣の話

お金があるのか、ないのかは自分の考えかた次第なんだ!

最近で一番感動した本からの例え話。

仲の良い少年が2人いました。彼らは別々の道を進みました。1人は質素な僧侶に、もう1人はお金も力もある王様側近の大臣になりました。
何年もあと、2人が出会いました。でっぷり太った大臣は、痩せてみすぼらしい僧侶を見て可哀想になりました。助けようと思い、大臣は声をかけました。
「王様の役に立つ方法を学べば、米と豆しか食べられない生活をしなくてすむよ」
僧侶が応えました。
「米と豆で生きる方法を学べば、王様のためにあくせくしなくて済むよ」

これを読み、私はこれまで、王様の側近であくせくして働いて来たんだなと痛感した。
結局、多くの人間は豊かな暮らしをしたいという欲望に突き動かされていかにお金持ちになるかを目指して生きているのではないかと感じる。

最近、FIREという言葉が流行している。

Financial Independence, Retire Earlyの略がFIREだ。

つまり、経済的に自立して、自分らしく暮らすために早い段階である程度のお金を貯めて、その後は会社に縛られずに自分らしい生活を送るという考えだ。

実際にTVでは30代前後で7000万程度の金融資産を貯めて、FIREを達成して、配当金などだけで生活している若者を紹介している。

この姿は今日の例え話でいえば、僧侶に近い考えなのであろう。

経済的に自立できるかどうかのポイントはいかに支出をおさえて豊かな生活ができるかである。

僧侶のような生活であれば、少ないお金でも精神的に豊かな生活ができる。そこには宗教という素晴らしい道標があるからだ。

しかし、そういう少ないお金で精神的に豊かな生活ができる人はたくさんいるのであろうか。私は簡単ではないと思う。それには2つの理由がある。

一つは人間は一度上げてしまった生活レベルを下げるのが最も難しい。まだ派手な暮らしを経験していない若者であればやりやすいかもしれないが、40、50代では自分、家族のために、もっといい暮らしをさせてやりたいという欲望をどうコントロールできるのかと思う。

そして2つ目は僧侶における宗教のような精神的な支柱となる考え方、生きるためのガイドなくしては質素な生活を続けることは難しい。

ただ、最近の若者の中には、NPOや社会貢献活動なで真剣に地球温暖化のために生きようとしている人たちもいる。彼らには僧侶の宗教のような支柱が存在している。

では一般的な人でこのコロナ禍で厳しい環境になった人はどうすればいいのだろうか。

そのためには、人生というものを見直す必要がある。

今までの経済的条件、基盤をベースに考えていては何も変わらない。これを変えるための原動力は精神的支柱となる考えをいかに持てるかである。

お金ではなく、何か自分が打ち込めるものを見つけて、それをすることで精神的な満足が得られるのであれば何も恐れることはない。

そのための自分探しが求められており、それが今のコーチング、ヨガ、瞑想、マインドフルネスなどの動きにつながっているように思う。

アフターコロナにおいてはますます精神世界のマーケットが注目されるだろう。それは占いなどとは違い、自分を変えることがなければ何も始まらないのだ。

個人としてはまずは経済的に自立するところから始めるべきだ。それには支出をまず抑えて、今ある収入の範囲内で生活し、それで満足できる努力が必要だ。

今回、読んで感動した本は「父が娘に伝える自由に生きるための30の投資の教え」だが、この本は投資の本ということだが、私には経済的なことに悩むのではなく、本当に自分のやりたいことに集中するためにどうすれば良いかを説いている本のように思えた。

ぜひ一読をお勧めするが、下記の動画でも十分である

子供には無限の可能性がある!

親はどれだけ子供に可能性、チャンスを与えられるかだ!それが親の責任だ

先月、オンライン講座で実施した編集動画を見て感じるのはやはり、子供には早くから勉強以外のことに触れる機会、チャンスを与えられるかが、これからの親の責任ではないかと。

私達の世代には想像もできなかった海外とのつながりが、簡単に手に入る時代。インターネットを使えば全く違和感なく誰とでも話がほぼ無料でできる。

でもそのためにはそのネットーワークと言語能力を親は子供に提供しないといけない。

良い学校に入るための勉強だけをしていたら、明るい未来が訪れるなんてありえない。

コロナが終息すれば、もっとグローバルで世の中を見なければいけない時代がやってくる。

そのために何を親は子供に提供するのか!

今週日曜日は最終回、今回はシンガポールからライブ中継!!

東京都からの百貨店の営業自粛延長要請に思う

渋沢栄一が百貨店の社長なら、きっと営業するだろう!

来週から緊急事態宣言が延長される。それに伴い大型商業施設の営業自粛について、政府の方針と東京都、大阪府の方針が別れた。そして、百貨店はまた営業自粛の要請を受け入れる方向のようだ。本当にこれでいいのだろうか?

渋沢栄一が百貨店の社長ならきっと、営業を再開するのではないかと私は思う。世のため、人のためを考えずに、ただ真面目に行政の指導に従うのではなく、今起きている問題はこういう中途半端な営業自粛要請しか出来ない行政の責任にあることを激しく批判し、社会に問題提起することではないだろうか。

そもそも百貨店や大型商業施設とロードサイドの1000平米以下の商業施設と混雑度合いは変わらないし、むしろ百貨店の方がきちんと感染対策をとっている。
小池知事は人流を抑え込むためには全ての感染の可能性のある場所を抑制すべきだと言っている。でも、結局は中途半端にしかできていない。で、こういう時には百貨店はわかりやすいターゲットとして狙われる。ならば、なぜ電車を止めないのか?ここが一番密ではないのか。

そもそもこの問題は施設ではなく、人にある。人の行動を抑制するしかないのに、その個人に対しては何も行動を制限していない。ここが1番の問題だ。

恐らく国も知事なども分かっている。でも個人の行動を制限することは憲法違反でありできないと知っているのだ。だからできないのだ。またこの話をしようものなら、護憲の人々からものすごい反論が出てくるのが必至だからだ。人の動きをいかに制限するか、それには個人の行動を法律で縛るしかないのだ。

日本には海外のようなロックダウンはできない。ここに問題がある。

海外のメディアをいつも見ている人なら当たり前のことだが、今、本当に日本は海外から馬鹿にされている。ロックダウンもできず、感染者が増えているのに、まだオリパラをやろうとしていると。

今の状況に現行の法律下では最善の策というのはないだろう。国には営業補償できる財源もないし、一部の野党が指摘するような企業、高額所得者からさらに特別な税金を徴収するなどは、それこそ机上の空論だ。

それでも、コロナで影響を受けているサービス、飲食、小売企業などのほとんどが真面目に行政の要請に従っている。

しかし、それで本当に世の中の人々のためになるのだろうか?

渋沢栄一は論語を商売の基本としている。論語とは人の道を説いたものだ。だから、今こそ人の道に照らして正しい行動をみんなが取るべきだ。確かに、今全ての人に有効な政策はない。だからみんな困っているのだ。

しかし東京の例で言えば、一部の国民、企業に犠牲をさせながら、あたかもずべての都民、企業のためになるということで営業要請自粛を続けさせながら、多くの人が懐疑的なオリパラについては開催を進めているというのはあまりにも人の道に反してはいないだろうか?

今こそ、企業、特にこれまで従順に行政の指導に従ってきた百貨店も声をあげていくべきではないだろうか?
多くの百貨店企業にも論語などの中国の言葉を社是として活用している。

売上、利益のために行動するのではなく、社会のため、ひいてはこの国をよくするために行動を起こすことは誰からも批判されないのではないだろうか?

国、行政にいつも義があるという考えは、まるで幕末の尊王攘夷を見ているかのようである。

今、まさに時代の転換点であり、日本の国もこれまでの平和ボケした状況から、変わらないといけない。これは海外の経験がない人にはどうしても理解できないのだ。

明治維新に活躍した政治家、実業家は揃って、欧米を視察しており、自らも語学を習得して、海外の優れた技術、制度、文化などを持ち帰り、日本に導入したのだ。

明治維新も活躍したのは若い世代であった。もう、古い価値観を捨てきれない70、80歳の政治家は引退して、新しい令和維新を起こす時であろう。

渋沢栄一のような人の道のために行動する、若くてパワフルな政治家、実業家は日本にはいないのだろうか。

リアル店舗の生き残りのヒントがここにある!

Amazonに学ぶリアルとネットの融合

最近、Amazonがロンドンにオープンしたヘヤーサロンの記事を読んで、さすがアマゾンと感心した。

https://www.businessinsider.jp/post-233503

ヘヤーサロンというのは、リアルでないと成立しない業態だ。そこにアマゾンは目をつけてその中にITとオンラインショッピングを融合させている。

元々、理容室、美容室はこれまで売上アップのために、シャンプーなどの物品の販売やマッサージなどのサービスを付加して、顧客単価のアップを図ってきた。
しかし、シャンプーなどは高価であり売上にはつながりにくかった。マッサージなども常連の上顧客でないと利用してもらえないのが一般的であった。

しかし、今回の取り組みはこの美容室での空間をネットショッピングの場に変えているのだ。

つまり、体験の場として美容室を顧客に利用してもらい、気に入ればその場でネットで購入する。このネットで購入することで価格が高いと言う不安をなくすことができる。また、色々な商品を体験できるというのは化粧品売り場でのお試しと同じ考えだ。まるでセフォラでのお試し体験と全く同じなのだ。

リアルの良さは今、ワクチン接種が進んでいるロンドンなどで顕著だ。やはり、人々はリアル店舗でのお買い物を待ち望んでいる。リアルのお買い物がネット販売に今後も負けることはない。これは断定できる!

しかし、すでにオンラインショッピングの手軽さも経験している。ではそれをどう融合するのか?

このアマゾンのサロンの取り組みが答えになるのかもしれない。

接客の場面ではアマゾンの取り組みにあるような、カラーリングをバーチャルで体験できるような仕組みが有効だ。リアルでないと体験できない、フィット感や修理箇所などの確認と同時に手軽に買えるオンラインとの融合をどう提供するかであろう。

この手法はネイルサロンやマッサージ店、メガネ販売店などにすぐに効果が出るだろう!

こう考えると、やはりリアル店舗の企業はオンライン専門の企業とうまく協業していくことが大切ではないだろうか。

リアルが主体の小売、サービス業が自らオンライン部門の強化を図るにはすでに時遅しという感じがする。

今回のようなアマゾンとの協業をするリアル企業がどんどん出てくると期待したい!

渋沢栄一は茶の湯の敵だった!!!

渋沢の原点は幕府の否定ではなく、日本文化の否定ではなかったのか

先日私のお茶の先生から、渋沢栄一の面白い話を聞いた。
熊倉功夫著「近代数寄者の茶の湯」の中に出てくる話だ。

この本の中で、渋沢と並ぶ明治維新時代の大実業家である増田孝の逸話が書かれている。増田孝は渋沢とほぼ同じ時期に生まれ、幼少から父親の進めもあり、英語を学び、その後、父と共に海外使節団として欧州に行き見聞を広めてきた。そして明治政府では渋沢と同じように大蔵省で働き、その後商店経営をはじめ、今日の三井財閥を作った大実業家である。


渋沢との共通点としては、若い時に欧州視察での経験を生かして、自らのビジネスチャンスを掴んだこと。得意の語学を生かして貿易の商売を始めたこと。多くの企業グループを作ったこと。90歳まで長生きしたこと。などである。

しかし大きく違うことが一つある。

それが茶の湯に対する考え方だ。
増田孝は増田鈍翁と言われるように、江戸時代が終わ李、同時に廃れた日本文化、遊芸などの復興に大きな貢献をした人物である。また自らも数寄者と言われるような茶人であった。

この本の中で、1897年ごろに増田孝(当時49歳)が渋沢栄一(当時57歳)が金沢を視察して帰ってきた報告をするために、料亭の2階に増田他数人を呼んだのである。渋沢は増田よりも8歳年上でありそういう関係であったのであろう。
そこで、渋沢は金沢を評して、茶の湯が盛んでどこに行っても茶の話や茶道具などを見せられて困ったと。まずこういう茶の湯の風習を打ち壊さないといけないと説いたそうである。

そんな時に増田は1階から客人だと呼び出しされた。1階には増田がお気に入りの道具商が来ており、大名物の釜が手に入ったと伝えにきた。増田にとってはとても興味深いもので色々と話を聞いていると、2階から渋沢に呼ばれてまた2階に行き、茶の湯がいかに日本をダメにしているのかを聞かされたと。こうして増田は渋沢と道具商の間を行ったり来たりしたとの逸話が書かれていた。

このように増田は実業家としては渋沢と同じく、欧州の合理主義、効率主義で事業を拡大した一方で、実は日本文化の守り続けたのである。
一方、渋沢は文明開花=西洋文化であり、それまでの日本文化を否定してきたのである。確かにそれも一理あると言える。しかし、同じような環境の中で、事業を進めてきた実業家でも文化に対しての知見や考え方は大きく分かれるものだと感じる。

この本で熊倉氏が言うのは、「近代化を単純に西欧化と捉えてしまうのは、第二次世界大戦後の歴史学が犯したとんでもない間違いではなかったか。明治の近代化は、西洋的近代化と伝統的な価値観の両者にしっかりと両足を下ろしていたのである」と述べている。

これは今の日本の経営者にも当てはまるのではないだろうか。
金儲けとする時は必死に稼ぐが、文化芸術を楽しむ時間もしっかりと作る。このバランスが求められているように思える。

SDGSはまさにその流れから出てきたようにも思える。