語学の勉強

私は毎日、英語のレッスンをしています。まあ、お金もないのでフィリピンのオンライン英会話です。でも毎日やっていると確かに話す力がついてきたと感じます。
でもリスニング力は全然ダメです。
洋画を字幕ナシで見てると悲しくなります。また英語の字幕ですらわからないのもたくさんあります(悲)

でもめげずに、毎日この自宅謹慎中に出来るだけ、語学の勉強はしっかりやろうと思っています。
シンガポールで外人たちと話しているのと、洋画というかアメリカの会話とはやはり違うなあと感じます。
でもまあ、言いたいことをいうのが大切です。

あと、1年ほど中断していた中国語も再開します!
自宅謹慎中だし、時間もあるし、やはり中国語は大事だし。
これからの24年(私の目標は24歳年上の大先輩で今でも大活躍されているタフガイです)を考えるとやはり今年に少しでも中国語も上達させて日常会話できるように頑張ります。

あと、問題なのは、プログラミングです。
オンラインで少し勉強しましたが、みなさんと同じく挫折しています。
どうも勉強する目的が見つからないのです。
プログラミングの学校を目指していた時はやらないといけないと思っていましたが、実際にやると、多少HTMLやCSSが理解できたからそれでって感じなんです。
最近、妻に勧められて読んだ本があります。
「知的再武装60のヒント」by池上彰、佐藤優
この中に60歳からの知的再武装にはあまり時間のかかるものは諦めろと。残り少ない人生なので、再武装にあまり時間をかける暇はない、自分の持っている能力を伸ばすことを優先しろという教えでした。
確かにそうかなと。

元々、私の得意分野は今後ますます需要の少なくなるリアルの小売り事業全般です(残念!)
でももう一つは新規事業を起こすことはずっとやってきました。
またそれなりにずっと勉強してきました。
なので、この「新規事業を起こす✖️第2の人生を描く✖️勉強する」を合わせたことができないかと思っています。
みんな、語学がペラペラで、なんでもスイスイ応えられて、なんでも知ってる人は少数です。そうではないけど、なんとか頑張ってこれからの60歳からの人生を充実させたい人を応援することを考えて行きます

ZOOMで飲み会は意外に楽しい!

今日は今月開催予定の音楽会が中止になり、その代わりに同じ時間にZOOMを使って同じ規模の人たち(60人前後)がオンラインで集まり、音楽について語るというかおしゃべりをするという企画の打ち合わせをZOOMでしていました。
そこでの発見は、意外にZOOMでも生演奏を見ていると感動できるということでした。
確かに音質はマイクやスピーカーを通してなので、全然よくないです。でもいつも素晴らしい演奏をしてくれる方が今この時に演奏しているというのを見るだけで、なんとも言えない気分になりました。
これはおそらく、聞いている実際の音ではなく、自分が記憶している演奏家の音を呼び覚ましているのではないかと思いました。
また、アイデアで、演奏会の場所である真鶴の風景を定点カメラとして流すことで、参加者はあたかも真鶴にいるかのような気分になれるようです。
私は真鶴にいますので、そこは実感がそこまではなかったですが、やはりこれもLIVE映像というのが良いのかなと。

これを書きながら、思い出すのは、亡くなった志村けんさんの8時だよ、全員集合です。
これは私も小さい頃よく見ていましたが、毎週生放送だったんです。だからとても臨場感がありました。
最近ではニュース番組を除くと、大規模なのは紅白歌合戦くらいなのではないでしょうか?
改めて、このLIVEというのはすごいなと感じます。若い世代で人気のYOUTUBEなどもやはりLIVEの方が人気があると聞きます。
ZOOMで、飲み会というのもこれまた意外に面白いんです。
別に飲み会ではなく、お食事会で良いんだと思います。やはり一緒の時間を過ごすということが大切なんだなと。
昔は電話しかなかった時代、やはり電話で話すことは一緒の時間を共有することなったんでしょう。

これから、コロナとの戦いは長期戦です。そしてこの終結にはワクチン、治療薬の完成までは続くのです。
そして第2のコロナが出てくることも間違いありません。とすると、私たちの生活はこれまでとは違ったものになるはずです。
特に仕事、買い物、教育などは大きく様変わりするでしょう。
その時に大事なのは、やはりLIVEです。

LIVEでないと、仕事もお買い物も教育も、もちろん、飲み会も楽しくありません。
これからのキーワードはいかにLIVE感をテクノロジーで生み出すかなのではないかと。

今できることは何か?

段々と東京を中心に首都圏のロックダウンが現実化を帯びてきました。
すべての人々が得体のしれない恐怖におびえ始めています。
私もその一人です。今、真鶴が拠点なのでここにいれば安全と感じますが、でも落ち着きません。
こういう時にすべきことは何でしょうか?

今日の英語レッスンの教材では、隔離生活で行うべきこととして、健康のためのエクササイズ、ブログを書く、DIYをするなどが勧められていました。
私はこういう時こそ、何かグローバルに実際の生活者が語り合える場があればいいのにと感じます。
今日も、フィリピンの先生と話していた時に、昨晩、私が友人の家にご飯を食べに行ったことをとても批判されました。
フィリピンは外出禁止令が出ており、social distance がとても重要だと。
そうなんです。妻がいるこれはシンガポールも同じです。自分が元気でも感染してるかもしれないというのが今回の怖いところです。
外出禁止令の意味が分かってなかったなあと反省しきりでした。
こういう世界の常識、日本の非常識をもっとグローバルで語りあえる場がもっとネット空間にあってもいいのではないでしょうか?

でもやはりそこには言語の壁があるんですよね。
だからこそ、英語は重要なんだなと改めて感じます。
だから私は、この期間はもっと英語の勉強に励もうかなと考えています。
でもやはり中身が大切です。本を読まないとね。こういう時こそ!!!

神の啓示か??

妻と話していて、彼女から今回のコロナウイルスは神の啓示ではないかと。これまでの実利主義で金、金となってきた世界全体に神が警鐘を鳴らしているのではないかと。
確かに、今回のウイルスはある意味、世界同時テロ事件です。
目の見えない敵が全世界で暗躍しているのです。いつまでこれが続くのかはわかりませんが、9.11の時と同じようにこのテロに人類は最後は勝利しますが、それまでの間、どう生きていくのか。そしてその後どう生きていくのかが問われるのではないでしょうか?
今の日本は世界から見ると本当に大丈夫かと思えるような甘さが感じられます。
私も今は真鶴がベースですので、どうも東京にいくのは相当気が引けます。危機感のなさにびっくりします。
先週の日曜日の花見のTV映像をみて恐ろしくなりました。
シンガポールのことはあまり日本では報道されていませんが、すごい規制です。ほぼロックダウンと言ってもいい状況です。
妻はそのような状況で、一人よく頑張っています。ご苦労さん!!

昨日のTVでレオスキャピタルワークスの藤野さんが言ってましたが、これから考えることはAfter Coronaの前にWIth Coronaだと。
私はこのコロナとどう一緒に生活をしていくのかを真剣に考えなければいけないと思いました。
仕事のやり方はすでにテレワークも進んでいます。東京に行かなくても仕事のできる環境が出来つつあります。
このようなウイルスに負けない生活のあり方を若者だけでなく、私のテーマであるシニアにも広げていかないといけません。
高齢のシニアこそ、このウイルスを恐れており、でも恐れて何もしないままでは息がつまり、それで病気になったりします。そういうシニアに向けて、生きがい、やりがいのある暮らし方をどう提案していくかはとても大きなポイントのように思えます。

日本はシニア大国なんです。TVでは若者を中心にした番組が昔と同じようにメインになっているように思えます。
でも今は60歳以上が大半の国なんです。
でもその人たちに本当にその一人一人の目線でやりがい、生きがいを提供しているサービス、教育は少ないように思います。

私はそれをやりたい!
ここに大きなマーケットチャンスもあるんではないかと!

いろんな事が起きすぎて。。。もう勘弁してください

今、私は大阪から東京というか神奈川県足柄下郡湯河原町の真鶴というところに帰る途中の新幹線です。新幹線でフリーwifiが使えるようになったのはすごいですね。
で、何してるの?って事なんですが。
昨年の年末に一旦、シンガポールの共同事業は中止にしました。それで日本で新しく新規一転やるのか、シンガポールでやるのかを考えようというのが今年のNew Years Resolution(新年の誓い)でした。
で、1月の中旬に日本に戻り、色々な方と話をしました。で、また2月にシンガポールに戻り、こちらでもビジネスのネタ探しをしていました。
で、2月末に日本に戻り、また3月の初めにシンガポールに戻り、今後の詰めをしていこうと思っていた矢先に、このコロナウイルスになりました。
2月の末に戻り、色々と所用があり、それもうまく片付いたらすぐに戻るつもりでしたが、シンガポールに帰ると14日間の自主隔離をしなければならず諦めました。この自主隔離はチョー厳しい自主隔離です。ほぼ100%隔離です。4月末からまたシンガポールに行く予定でしたが、これも厳しいと予想されます。
で、結果として日本にずっといなければならないことになりました。
日本とシンガポールをつなぐビジネスを考えていましたが、もう今は全くできないし、これはビジネスの形が変わりそうですね。現地に行くよりもオンライン環境をいかに現地にいるように近づけるかに。留学も変わるような気がします。
まあ、ビジネスを始めるなら、リスクを考えてもやはり東京の方が断然楽です。まあ成功するかどうかは別として。

奥さんも日本に戻ると、シンガポールに戻った時に14日間の自主隔離があるので、仕事上無理ということで、日本出張は当分諦めて、シンガポールにいることにしたそうです。
またバラバラの生活に戻りそうです。
でも、私の場合、東京に行かないと仕事の話はできないし、私の実家は大阪なので親孝行も含めて、東京、大阪を行ったり来たりという生活になりそうです。
でもコロナウイルスのオーバーシュートが懸念されるのが、大阪と東京なんですよね。
今、乗ってる新幹線もガラガラです。なんとなく怖い。
でもシンガポールに比べたら全然快適ですよね。まあ、日本ではあまりシンガポールの話でないのでね。

さらに今回私に追い打ちをかけてきたのが、シンガポールでの資金運用、投資です。
昨年用意した開業資金は現金ではなく、株式よりもとても安全と言われている債券での資金運用を共同創業者とアセットマネジメント会社にお願いしていました。
しかし、今回の株式、債券、ゴールドなど全ての金融資産が投げ売りをされて私の創業資金も風前の灯火になっている事が判明しました。Cash is King だそうです。
いやあ、友人を信用して、リスクはもっとも少ないと言われたので、安心していた自分がバカでした。シンガポールで投資するために用意していた資金がなくなると、次のビジネスでの展開では投資は簡単にはできません。
まあ、この問題は友人との問題でもありますが、やはり今回のシンガポールでの一連の事業展開活動はあまりにも、自分が未熟であったのと、運が悪いということになります。

私今年、59歳。前厄なんです。
やはりこういう時には大人しくしておいたほうがいいのかもしれません。
でも私みたいな人がいっぱい世の中にいるんですよね。
本当に首をつる人が出てくるんではと思ってしまいます。これも全てコロナウイルスですもんね。
私はそこまで追い詰められていませんが、やはりこのコロナで世界経済がどうなってしまうのだろうと思ってしまします。自分もやはり現金で持っていた方がいいかなと。

でも、私は素晴らしい家族に囲まれています。妻と母親からはいつも叱咤激励を受けています。私の未熟さを指摘してくれる人がいるのはありがたいです。また友人にも恵まれています。今回の件でも助けてもらっています。
そういう意味ではシンガポールに行ったことは価値がありました。
どうなってもここで、踏ん張って前を向いて行けそうです。
確かにシンガポールに渡った7月から今日まで本当にいろんな事が起きています。
でもそれは自分の成長のための勉強だと捉えるようにします。
世の中、お金で買えないものが一番大切です。人と人の繋がりです
それを教えてくれているような気が、今回のコロナ騒動の中にいて感じています。

働かないおじさんと言われている人を助けたい!


今週の日経ビジネスの特集がまさに働かないおじさん特集でした。私が感じている事です。
かないおじさんにしたのは誰でしょうか?
会社なんです。
年功序列、終身雇用、企業内労働組合に守られてきたサラリーマンは転職ということは頭に浮かばないように洗脳されてきたのです。
そし、管理職になり、あまり実務をしなくなると、昔使っていたワードもエクセルも使えない。そして部下がやってくれていたんです。働かないおじさんはなるべくしてなってしまったのです。
で、一部の人はこのレールから飛び出して自分の道を進んで、成功した人が今、こうするべきだったんだと説いているんです。
確かにそうです。
働かなくなったおじさんは使いようがありません。
ではその人を社会としてどうするんですか?

何人かの友人からは、もう会社は50過ぎた働かないおじさんに再教育するつもりはないだろうと。
私も経営者の立場の時はそう考えていました。やはり、コスト対効果ですよね。
でも今、フリーランス(かっこいい無職)になって感じます。
今のコロナの影響で今後多くの失業者が予想されます。その人たちは50歳以上の人が多くをしめるでしょう。
日本の企業は簡単に雇用解雇はできません。では働かない、もしくは働く場ないおじさんたちを会社はどう扱うのでしょう?

ベンチャー企業もおじさんはいらないんですよね。顧問で取引先とかを紹介してくれるおじさんは欲しいみたいです。
社会としてもこの働かないおじさんを最教育して、今までとは違うキャリアパスを提供する事が求められると思います。これはSDGSの考えにも通じます。
私は日本では、ぜひこの企業で働かないおじさんを再び働ける機会を提供したいのです。
企業の中での再教育もあるでしょう、また選択定年した人に再教育して新たな働くおじさんのなることもあるでしょう。
ではそのための教育は何か?
ここがポイントであり、これまで私が考えてきたプログラミング教育ではないと感じています。
答えはズバリ、働かないおじさんのマインドセット、自己変革なのです。

これって、企業変革にも通じるような気がします。
これまでの成功体験、経験を捨て去って、新しいフィールドに挑戦してこそ、企業変革はできるのです。
企業変革でも社員一人一人の自己変革が求められます。
でも、ちょっと違いますよね。
これを私は日本でどうやるかを考えているところなんです。

昔のように公共事業にお金をつぎ込んでも、働く人は昔と違っておじさんではないです。また立派な市役所とか公民館はもういらないと気が付いてますよね。
ケインズの財政投融資は今でも少しは効くと思いますが、雇用を増やすためには公共事業ではなく、オンラインでおじさん、おばさん、誰でもがメルカリで個人売買できるような教育をするとかだと思うんです。
若いベンチャーの若者には多くの老人のきもちはわかりません。
だからこそ、ここにシニアが活躍できるマーケットがあるのではないかと。
そのために必要なのは、今からでもメルカリをやってみようというマインドセットとメルカリに出品できるリテラシーです。シニアによるシニアに向けたIT教育はあるのではないかと。

人との繋がり

今の私は本当に人生で初めて宙ぶらりんです。
仕事をしているといえば、していないし、でも仕事に向けて動いていないわけでありません。
顧問の仕事も少ないですが、やらせていただいてます。でもこのウイルスで経済が落ち込み、顧問の仕事なんてすぐになくなるかもしれません。
そう、やはり不安なんでしょうね、これからの自分が。。。

シンガポールでのビジネスも一旦、友人との事業とは断念しましたが、次の事業がまだ浮かんできません。何となくやれそうなことはあると思うのですが、このコロナウイルスの影響で止まったままです。
日本でも同じことが起きています。


やはり人との繋がりでしか、ビジネスチャンスは生まれてこないなと感じています。
シンガポールに来て、良かったなと思うことは良い友人に巡り会えたなと思っています。
人との出会いはこれまでも会社にいた時にも色々とありました。でもやはり会社の看板、肩書きでの付き合いがほとんどです。
日本でも同じです。今は会社時代の友人ではなく、それ以外の友人との繋がりの方が私に色々な情報、アドバイスをもたらせてくれてます。
今、肩書きが無くなっても気にかけてくれたり、お付き合いをしてくれる人は限られています。でもそういう人がいるのはありがたいです。直近まで役員をしていた時に、仲良くしていた若い人たちが社内外にいましたが、そのうち結構な人数が本当にスーッといなくなったんです。いやあ、人との繋がりってこういう時にわかるんです。
いい勉強になりました。

シンガポールでは肩書きもないし、単なるオジサンなんです。
でもそういう中でお付き合いしてもらえる人は大切です。確かにその中でビジネスを一緒に考える友達も出来てくるかもしれませんが、まあそれは私個人との付き合いなんです。

でもその時に、一体自分には何ができるんだろうと振り返るととても不安になります。
この間、かかりつけのお医者さんと話していて、「藤野さんは何ができるんですか?どんな資格を持っているのですか?」と聞かれて、何も無いなあと感じました。
ビジネススキルでもエクセル、ワード、パワーポイントは少しは出来ますが、難しいことは出来ません。またプログラミングも出来ない。英語もまだまだだし。中国語もお休みしてるし。
でも私にも色々と私にしか出来ないこともあると思うんですけど、その自信が持てなくなるんですよ。
そこが自分の弱みかなと。

そういう時に自分を励ましてくれるというか、冷静に自分を分析できるようにするのがコーチングなのかなと思っています。最近、コーチングをしている女性に会いました。
自分の考えを整理して、自分を見つめ直すにはコーチングはぴったりでは無いかと思いました。
経営でも占いで自分の判断を決めるのではなく、コーチングで自分を見つめ直して判断するのが良いかなと。
少し、コーチングも勉強しようかなと思っています!

人がいない

この写真は先週の土曜日にセントーサ島にあるレストラン街で撮影しました。
土曜日の昼頃ですから、いつもなら大勢の観光客で一杯なのですが、こんな感じでした。
島の中のレストランも臨時休業しているところも多く見られました。
いやあ、なんとなくこの先これがいつまで続くんだろうと、不安になりました。

日本も今、どんどんと感染者が増えており、シンガポールと同じ状況になることも予想されます。
シンガポールではどちらかというと死者も出ていませんし、すでに退院した人も20人近くになっており、軽症の人が多いのでシリアスな報道はありませんが、会社では全ての会議が中止。
政府の方針でもし喉の痛み、咳などの症状がある場合は5日間の有休休暇として自宅待機になります。
なんとか、食い止めようとしているのがシンガポール政府です。
でもみんな不安でいっぱいなんですね。

お茶と向き合う

私は、今シンガポールで自宅謹慎状態なので、これを利用して、家であれやこれやと考えております。
で、家にあるお茶の本を読んでいるのですが、いやあ、お茶の世界の深いことに驚き、またそれを支えてきた道具屋さん、数寄者である実業家の知識、教養の深さに圧倒されています。

自分は昨年会社をやめて、定年のない第2の人生を歩む決意をしました。
今は、これからの5年をどうしていくのかを暗中模索していますが、お茶とは死ぬまで向き合っていきたいと思っています。
その理由ですが、たまたま妻が40年以上お茶をやっており、もうエキスパートであるのも理由ですが、お茶に興味を持ったきっかけは、以前に店長をしていた頃、一度だけ表千家の初釜に出席したことがありました。
その当時は何もわからず、他の百貨店の社長さんたちと一緒に見よう見まねで雰囲気だけを体験しました。
その時、何かいいなあと感じるものがありました。
その後、自分もお茶を始めようと思い出したのがスタートです。
街場の先生の体験レッスンや遠州流のお稽古にも少し通いましたが、やはり妻の表千家流で習うことを決心し、3年近く前から通っています。
まだまだ駆け出しというか、本当に初心者ですが、なんとなくだんだんと好きになってきたのです。
昨年は小田原の宗匠のところに初釜に参加させていただき、くじ引きで宗匠直筆の書をいただきました。
夏前にやっと軸装ができました。
とても良い言葉で
也太奇
という禅の言葉です。
意味はこちらから
https://zengo.sk46.com/data/yataiki.html
私は「自分の新しいスタートにぴったり」の言葉だと思うと同時に、この軸装が素晴らしいと感じました。
良いものをいただきました。

仕事だけでなく、お茶のお稽古にもしっかりと取り組んで行こうと思っています。できるだけ時間をお茶にあてるつもりです。
やはりお茶は修行だなと感じます。まだ正座も長くできない私がいうのもなんですが、いろんなことを経験してこそできるお点前もあるのではないかと感じてます。
単に手前の綺麗さ、スムースさだけでなく、人の心に残る一服を立てれるように頑張りたいと思っています。

お茶にこれまでの多くの政財界の重鎮が関わってこられた理由がほんの少しですが理解できる気がしてます。
お茶のこころを持ってこれからのビジネスに取り組む所存です。

危機的状況にどう対応するのか

今、シンガポールは日本よりも危険です。
570万しかいない国ですでに58人の感染者が出ています。またそのうち二次感染、3次感染が相当進んでいます。
先週の金曜日には政府がアラートレベルをSARSの時と同じオレンジに上げたため、一部の地域でパニック騒ぎとなりました。
この真っ只中にいて、私は自分が2011年東日本大震災の時に大丸東京店の店長だったことを思い出します。
あの時はまず、大きな地震により営業ができなくなりました。しかも、店内には合計6000名近くのお客さま、従業員がいたのです。ビルのオーナー(JR東日本と三井不動産)は全員退避という指示を出しました。私たちはテナントという立場なので、余震が続く中、お客様に店外に出ていただくようにお願いし、退店の誘導をしました。その時に何人にもお客様から、店内にいた方が安全だから残りたいと切望されたのです。とても申し訳のない気持ちでした。なぜなら、地震が揺れてる時にはお客様に「このビルは2008年に建てられた最新鋭のビルで免震構造になっており、外にいるよリも安全です」とお伝えしていたからです。

そして、その日はライフライン(電気、ガス、水道)は大丈夫だったものの、交通機関がストップしたため、徒歩以外では帰宅できなかったのです。店内には従業員とその家族は留まる事ができました。その他の多くの人が地下通路で寝ておられました。
私は次の日の営業をするのか、どうかの決断をしなければいけませんでした。
こういう時は社長の判断ではなく、店長が判断をします。
百貨店の食品売り場でお弁当売り場の仕込みは早いところでは朝の5時から始まります。
ということは朝の4時には営業するかどうかを決めないといけないのです。
あの時のことを思い出すと、いろんな人がいたなと思い出します。

家族の事が不安でとにかく家に戻ろうとする人。特にあの当時は電話が繋がりにくく、SNSは比較的繋がったのを覚えています。またその日は帰れないので、会社のみんなにお弁当や食料を調達していた会社員の人。帰れないから飲み屋で飲んでいた人。私は全く外に出れなかったので自分の目ではあまり見れませんでが、すごい人が歩いて家路に急いでいたのをTVで見ました。緊急時にはその人の本性というか性格がよくわかります。本当に色々です。
私はあの時に、まず思いました。まずお客様、従業員の安全をどう守るか、そして営業をどうするのかでした。
幸い、電車が少しづつ動き出したので、次の日は需要が見込まれる食品売り場と修理対応などを含めたサービス対応として1Fフロアを開ける事にしました。朝の4時に店内放送で従業員に伝えました。結局ほとんどの人は眠れなかったのではないでしょうか。

百貨店を営業するには多くの人員が必要です。またエレベーター、エスカレーターが使えないと営業はできません。
新しい百貨店にはお客様用の通常階段というのはほとんどありません。非常用階段しかないのが普通です。
これは火災が起きた時に階段というのは大きなトンネルと同じでとても危険なのと、スペースを有効に使うためもあり、客用階段というのはあまり設置しません。
私は夜中に4度地下3階から13階まで歩いてフロアのチェックをしていました。正直、足はパンパンになりました。
でも火事場のバカチカラでなんとか乗り越えました。
ここでのポイントは大型店舗はエスカレーター、エレベーターが動かないと営業できないという事です。

その次の日、オープンを確か早めて食品、特にお弁当の販売をしました。みなさん待ち望んでいて、あっという間に売れたのです。すごい状況でした。確かにコンビニには何も商品がなかったです。なぜならトラックが全く動けなかったのです。この時に、「あー社会に役に立つ事してるなあ」と実感しました。
でも、すごいのは朝の5時から仕込みをしてくれた取引先のみなさんです。
彼らはおそらく一睡もしてなかったと思います。今の働き方改革では許されない事ですが、こういう時にこそ人間の真価が問われるのではないかと思いました。取引先の皆さんには改めてお礼をすべきであったと反省してます。

しかし本当に大変な事になったのは、数日後に原子力発電所の爆発です。
この時は私はよく覚えていませんが、放射線が漏れているとのデマが流れて、結構多くの方が東京から関西などに逃げたそうです。数日後外資系の化粧品が役員などを含めて日本を脱出しました。当時あるブランドは誰も販売員もおらず、シートをかけて開店休業状態でした。私はこれからの店をどう運営していけば良いのかに必死で、自分が逃げるなんてことは全く考えられませんでした。
今のような自分も新型ウイルスにかかるという恐怖感はありませんでしたが、日本が、東京がどうなるんだろう?そして店はどうなるのか?会社はどうなってしまうのか?という不安感は同じだと思います。
特にあの時は余震が続き、携帯に緊急地震情報が何度もなりました。
システムで震度5になるとエレベーターは緊急停止します。そうすると復旧には管理会社の人がきてチェックするまでは動かせません。その時にエスカレーターを使っていいのかどうかも曖昧でした。

やはり、緊急時には地震でエレベーターが止まると、その顧客誘導が必要であり、エスカレーターも危ないので利用を止めると本当に営業できません。余震がつづいている間は本当に営業になりませんでした。
少し落ちつてくると、今度は売上をどう立て直していくかになります。
おそらく、今全ての企業でこのウイルスによる、業績悪化にどう対応するかを連日やっていると思います。でも会議は危ないからできないかもしれませんね。
この話を続けてるとどんどんありますが、今日お伝えしたいのは本当に危機的状況の時に意外と人間は冷静に慣れるものだということです。
次の機会にお話しますが、現金を要求してきた爆破予告事件がありました。この時がおそらく今まで生きてきたなかでもっとも緊張した時ではなかったかと思いますが、この時も意外と冷静でした。
私はよく、ポカをします。
昨年パリに出張で行った時に、羽田の出発ラウンジで財布を置き忘れました。機内に入った時にわかり、アテンダントANAのラウンジのこの辺りで落としたと伝えたら、すぐに探してくれましたが見つかりませんでした。飛行機のドアが閉まる時に最終責任者のアテンダントがこのまま、パリに行かれますか、飛行機を下りられますかと聞かれました。この時も結構冷静に判断できました。結果はそのままパリに行き、パリ到着後も財布は出てきませんでした。それから12時間後、最終的にラウンジではなく税関が管轄する出国エリアで見つかりました。また現金を含めて全て無事でした。嬉しかったなあ、あの時国際電話で羽田空港に確認の電話した時のことは忘れられません。でも国際電話代が1万円かかりましたがね。

このときも財布が見つかるまではもう、ドキドキでパリに向かう飛行機の中は生きた心地ではありませんでした。12時間は長かったです。でも意思決定は冷静にしたなと思います。
基本、気の小さいビビりの男ですが、判断するときは冷静だったなと。

でもできることなら、こういう意志決定はせずに穏やかに暮らしていきたいと思っています。
早くウイルスが収まることを祈ります!

若い時にもっと失敗すべきだったのか??

最近、家族からよく言われることがあります。
「あなたはこれまであまり苦労せずに人生を過ごしてきたんではないですか?中学、高校受験には失敗したけど、大学では志望校以上のところに行けたし、会社もまあ希望ではなかったところに入ったけど、その後は順調に行って、最年少で役員にまでなった。結婚では一度失敗してるけども、それもまあ今ではよくある事だし。今、振り返るとあなたのこれまでの人生は順調そのものだった。早い段階でもっといろんな失敗をして痛い目にあった方がよかったんじゃないの。」
私自身ではこれまでいろんな局面で辛い目にもあったと思いますし、苦労もしてきたつもりです。でもまあこう言われるとそうかなと思ったりもします。
前回、お話したように42歳でアメリカに一人で行き、予想はしていましたが、英語に苦労しながら、若くて自分よりも優秀な学生と一緒に勉強する事で自分のそれまでにプライドは無くなりました。

でも今思うと、復職した時に、また変なプライドが生まれたように思います。
復帰した時に会社に戻ると、何もかもが古くて、スピード感もない、このままではこの会社はダメになるという気持ちを強く持ちました。しかし一方で社員のみんなの意識は昔の自分と同じでグローバルでもなく、やはり井の中の蛙の人が大半でした。で、自分がやらないと行けないと感じ、その当時社内の人に偉そうなことを言ってたように思います。
その時、自分は周りの人に対して少し、優越的な気持ちを持ったように思います。
確かに、社会全体で見れば自分は全く大したことのない社会人と自覚はしていたのですが、会社の中では自分のような意識と知識を持った人はいないのではないかと考えるようになったかもしれません。
これが今思えば、自分の浅はかな考え、傲慢さでした。

いくら頭が良くても、知識や経験をたくさん持っていても、だからと言って優れた経営者にはなれませんし、人格者とはほど遠いのです。東大、京大よりもハーバード、プリンストンの方が断然上という世界を見ながら、それでもすごい奴は確実にいるのです。では何が社会、会社を大きく動かす、変革する力になるのでしょう。


私はもっと徳を積むことが必要でした。
自分は少し米国のエリートのグループに触れる事で、なんとなくその気分を味わっただけなのに、それを自分とシンクロさせてしまったのかもしれません。
徳とは己をきちんと知った上で、相手を知り、相手の良い点を見つけて、それを認め、自分の糧にしていくことであり、基本は相手を尊敬することから始まるように思います。
まあ、徳とは何かは私ごときが偉そうに定義することではありませんので、これくらいにしますが、やはり徳を積んでいる人はどこか違います。

ビジネススクールに行った事で一番よかったのは勉強するクセはできました。まあ、いうほどできていませんが。
でもMBAで徳を積む事は勉強しなかったように思います。
失敗してこそ、その人の気持ちがわかるし、常に相手の立場に立って物を考えなさいと伝えてきましたが、じゃあ、解雇された人の気持ちはなってみないと分かりません。
そういう意味で言えば、やはり私は40代後半ぐらいで失敗をして、自分を見つめ直すべきだったのかもしれません。
でもその時は、今から思えばイケイケドンドンみたいな時でした。
これまでの人生では、40代後半から50代前半までが輝いていたかもしれません。
でもその輝きは本当に輝きではなく、自己満足だったのではないかと感じています。ちっちゃい自分だったなと改めて思います。

「人生のやり直しはいつからでも遅くはない」と言われます。確かにそうです。
今、お茶のお稽古に通っています。このお茶のお稽古も終わりのない勉強であり、いつから始めても良いと言われます。で、続けることが大切と言われてます。
では私は次の人生、今から何を始めて行けば良いのか。
これが大きな問題であり、チャレンジなのです。
もっと失敗しておけば良かったかもしれません、でもまだ、これからやれることはたくさんあるんだということを感じています。

自分の棚卸し

いま、自分の棚卸しをしないといけないなあと感じてます。
自分のこれまでの人生を振り返り、自分とは一体何者で、どこに強みがあり、弱みはどこなのかをもっとしっかりと理解することが必要かなと。
ある時まで60歳過ぎたら、定年して、家族、孫とかの世話をしながら余生を楽しむ。そのために60際までは頑張るという典型的な価値観を持っていたように思います。

それを変えたのは41歳の時、会社からMBAに会社派遣で行けと言われて、全くわからないまま、とりあえず慶應ビジネススクールに入りました。その時に当然入試があり、その過去問の英語がとてつもなく難しくて、半年ぐらい必死で勉強しました。
今思えば、そんなに試験の成績だけが重要ではないことが後からわかりましたが、当時は前の会社からビジネススクールに行った人はいなくて、私が第1号でしたら、誰も何もわからない状況だったのです。
まあ、無事に入学してからが、目から鱗の連続でした。同級生は私よりも10歳は若い30前後の人ばかりでした。でもみんな優秀でした。自分は今まで何やってきたんだろうと凹みました。

特に凹んだのは、交換留学でシカゴのケロッグスクールに行った時のことです。
この時も留学に必要な英語の試験があり、ビジネススクール入学後もTOEFLの試験勉強や英語の面接の勉強をしてました。
それで、なんとかケロッグに行けることなりました。実は私はケロッグのコトラー先生に会いたかったのです。大学時代からマーケティングを専攻しており、コトラーのマーケティングマネジメントは当時のバイブルでした。
で、なんとかコトラーに会いたくて、英語の勉強と学校の成績もよくないと交換留学でケロッグには行けなかったので、頑張りました。
会社に入ってから、30才ぐらいの時に社内勉強会を自分で主催して、コトラーの原書を読む会とかやってました(笑)


で、ケロッグに行ったのが2003年の夏です。そして9月から2年生のクラスに編入されました。で、その時の経験がそれまでの自分のありとあらゆるプライドと自信を消し去りました。
日本でも、大阪から、東京に行くと、すごい奴がいるとびっくりしたのも束の間、アメリカに来たらもっとすごい奴がゴロゴロいてもう本当に情けなかったです。
大学も東京でしたが、大阪はやはり日本で2番目の都市だと自信あったんですがね。
ちなみに私は大阪、堺市の出身で、コテコテの関西人です。
しかもケロッグの学生は、慶應よりさらに若くて20代後半ばかりでした。
なので年の差が12才以上離れてるんです。でもみんな、年取った僕のこと、特に小売業出身の学生はほとんどいないから、興味があったのか、色々聞いてくれました。

この時思ったのが、英語は道具だなと。いくら上手な英語が話せても、中身のない人の話は誰も聞かない。自分の知らないことを知ってる人の話は、英語が下手でも聞いてくれると。
で、いまだに、シンガポールでも、英語で苦労してますが、中身が大切だと信じて頑張っています。

このアメリカで半年暮らした後から私の人生は大きく変わりました。
多分、私の価値観が変わったのかもしれません。
この先の話はまた次回に!