焼肉ライクについて思う

TVで芸能人が美味しいとコメントしてるお店って本当に美味しいの?

先日、東京に行ったのでTVで話題になっていた焼肉ライクでランチを食べた。
TVで見ていた時に、お一人様で仕切りが付けられていてコロナ禍における環境はバッチリだし、値段も千円以下でランチが食べれてとても良いビジネスモデルだなあと感じたからだ。

またその時に坂上忍やヒロミがうまそうに食べていたのでこれは上手いのかもと行ったわけだが、結果としてはまあまあだった。
私が行ったのは赤坂見附店で午後1時を少し回ったところだった。TVに出た直後だから一杯かと思いきや、ガラガラだった。

まず、初心者にはどう注文して良いかもわからないデジタル画面だが、店員は何の説明もなく、手の消毒ばかりを求めてきた。
何とか画面を見ながら注文をしたわけだが、とにかくスタッフの数が少なすぎる。全てデジタル化というのはわかるが、サービスが悪いとしか思えない。でも支払いは普通に伝票とレジ。
で、注文したのはカルビハラミセットで200gで960円だったかなと。
このセットはなかなかのボリュームがあった。

まず肉の薄さが半端なく薄い。だから枚数としてはたっぷりある。それを一枚づつ焼いていくのである。確かに薄いからすぐに焼けるのでテンポよく食べれる。ご飯がすすむ感じだった。タレのパワーかもしれない。
食べながら、松屋のカルビ定食よりにはお得感があるかなと思った。しかし松屋にはサラダがついてくるが、ライクにはついてこない。

で、食べながらふっと気づいたのだが人工肉を宣伝していた。カルビとハラミがあり、50g300円ぐらいだった。

興味をそそられたので、追加注文した。しかし注文の仕方がわからず、店員を呼び聞いた。面倒だった。

で、食べた。ちょーまずい。リアル焼肉を食べた直後に食べたのもあるが、食えたものではなかった。こんなのに300円も払わされて非常に満足度が下がる。

そしてお会計で1400円近く払い、また来たいなあと思う気持ちが完全に失せてしまった。

今回のライクはビジネスモデルはよくできている。
少人数で運営でき、シェフもいらない。そして多くがデジタル化しているので伝票も少ない。
一人で気軽に本格焼肉を低価格で食べれるのは良い。さすが牛角の創業者だなと感じる。

またコロナでの感染予防にも良いと思えるお一人さま仕様だ。しかし実際には隣との距離はとても近く、やはり感染対策ができているとは言い難かった。

コロナが再び猛威を奮うなかでライクは頑張れるのかと考えるとそうとは思えなかった。

結局リアルのレストラン業態でしかない。またスタッフの少なさ=サービスの悪さとなっており、これは改善しないとリピーターが出づらい。

やはり、レストランはサービス業だ。味だけを追求するだけでなく、環境、サービスが必要だ。

いっそのこと、支払いも全てアプリ支払いでレジなしにするくらいまで飛んだ方がよかったかもしれない。でもそうすると顧客層が若い人に限定されるからできないのだろう。

なかなか難しいが、レストランビジネスの良いところはすぐに改善できるところだ。

総合的なサービスとしてレストランビジネスを捉えないといけないというのがよくわかった。
これはどんな業種でも同じで、やはり顧客の立場にどこまで立ってビジネスモデルを考えるかだなと。

顧客の声を聞くというマーケティングの基本を忘れていないか?

最近の2次データの氾濫によって1次データ、つまり顧客の生の声を聞く姿勢が疎かになっている

マーケティングの基本はお客様の立場に立って考えることだ。しかし、最近はなんだかYouTuber やSNSの影響が強くなり、なんだかそういう情報をSNSで見ることで顧客の声を直接聞いたような気分になっていないだろうか?

先日も中国人のマーケットが今後、コロナが収束した後にどう変化するかを話し合う会議に参加した。その中ではみんながなんだかデータというか経験というかそういう自分目線で話をしているのがとても気になった。誰も今の中国の生の声は聞いていないし、聞こうとは言わない。

日本人でもコロナによっていろんな立場で物凄く儲かっている人もいれば、とんでもないくらい苦しんでいる人がいる。テレビなどのメディアはそれを特徴付けるために極端な人を取材して、これがコロナによる影響の実態だと報道している。しかし、これは大きな間違いだ。

全ての日本人がコロナで厳しい経済環境に置かれているわけではない。統計的なデータがないまま、メディアの感情論的に報道しているに過ぎない。
やはり、報道でもデータとしてどれくらいの人が本当に困っているのかをきちんとデータとして集めて報道すべきだ。

大体が100人、多くて300人の人に聞きましたというアンケートが主流だ。しかし、統計的には100人なんて母集団は正しいデータは取れない。

統計学の知識がビジネスマンに必要なのはこの理由だ。

メディアは結局は確からしい結果を本当らしく見せるためにわざとデータをとっているに過ぎない。

これと同じことを小売、サービスの現場やマーケティングの世界でも行っているように感じる。

なんとなく、SNSマーケティングやYouTubeマーケティングなど新しいネーミングのマーケティング手法で目眩ししているように思える。

マーケティングの基本は変わらない。ターゲットは人間であることは何も変わらないからだ。

そのお客様に直接話を聞いて、仮説を立てて、その仮説をテストして本当に正しいかどうかを検証する。流行りの言葉で言えば、リーンスタートアップだ。

しかし、なんとなく泥臭いお客様の話を聞く作業、つまりインタビューやアンケートが疎かになっていないだろうか。

答えは常に顧客の中にある。

自分はマーケターで何でも自分は知っているという人は絶対に信用してはいけない。

マーケティング5.0が楽しみ!

コトラーがついに来年2月に新刊を出す!

先日のオンラインイベントでコトラーが登壇して、これからのマーケティングについて語った。
詳しくは下記のサイトを読んで欲しい。

https://markezine.jp/article/detail/3476

この中でコトラーが唱えた新しい消費者グループが面白い。

シンプルライフ派(Life Simplifiers):節約を心がけ、車やモノは所有よりもレンタル
反成長アクティビスト(Degrowth Activists):地球が耐えられない人口増、生産、消費に反対
環境アクティビスト(Climate Activists):エネルギー、乗り物を見直し二酸化炭素排出量削減に注力
健全な食事選択者(Sane Food Choosers):動物愛護を訴えるベジタリアン、ビーガン
保全アクティビスト(Conservation Activist):モノの削減、再利用、修繕。必要な人への提供

時代はコロナで本当に変貌しているように感じる。

これからのマーケティングにおいてさすが、コトラーと思える内容だった。

来年2月の新刊が待ち遠しい。

でも英語版しかない。だから英語は必要なんだ。ツールなんだとしみじみ思う。

スーパー銭湯の露天風呂にある大型テレビは必要なの?

温泉水はトラックで運んでいるから、露天風呂にいるとどこかの温泉地にいる気分だったのに・・・

昨日、実家の近所にあるスーパー銭湯に行ってきた。私のお気に入りは露天風呂だった。そこは温泉水を温泉地から直接運んでおり、温泉そのものの品質にこだわっている。そして、露天風呂は広く、そこで半身浴をしながら、ボーッと考えることができるとてもお気に入りの場所だった。

しかし、久しぶりに露天風呂に行くと、なんと大型テレビが設置されていて、大音量で放映されていた。そう多くはなかったが、みんなテレビを楽しんでいるようだった。

私はガッカリというか、非常に違和感を覚えた。露天風呂の良さは疲れを温泉の流れる音、自然の風や光とともに癒してくれるところなのだと思うのだが、テレビはそういう癒しというよりも娯楽というか余興とでもいうのだ。

今Go to Travelで温泉地が人気だが、例えば箱根の温泉旅館に行って、そこの露天風呂に大型テレビはあったらみんなどう思うのだろう。

マーケティングの観点から見ると、ターゲットとする客層が箱根の旅館とスーパー銭湯では違うということなのだろう。旅館でもランクに合わせて、安い温泉旅館であればテレビがあるかもしれない。非日常を求める客層にはできる限り、自然な環境が求められるし、日常の延長にある娯楽を求める客層にはテレビは欠かせないだろう。

実家の近くのスーパー銭湯の客層は中流から下のボリューム層を狙っているようだから、テレビを求める人が多いのだろう。しかし私にしたら、もったいないと思えて仕方ない。
テレビのな以前の露天風呂なら、箱根の旅館に行かなくても温泉気分が満喫できるのだから。

結局は客層次第ということだ。マーケティングの基本はターゲットをしっかりと定めて、そのターゲットのニーズ、ウオンツに基づいた価値を提供することだ。
ターゲットが満足する、期待以上の価値を提供して初めてビジネスは成功するのだ。

自分の理想とかにこだわっていると全くうまく行かない。

そう思いながら、私もついついテレビを見ている自分に気がついた。ビジネスには理想と現実があるのだ。

綺麗事ではなく、やってみて変えていくことも必要だなと。

無茶って言葉はどういう意味だろう?

ルールのない時代に入ってきたかもしれないコロナの世界

大阪都構想も否決された。トランプ大統領もどうやらまた勝利しそうな雰囲気。
今、予想とは違うことが起きている。

なんだか、世の中はどんどんルールよりも、自分たちが良ければ良いという、時代になってきたように思える。全体最適から個別最適に人々の目は向いてきているように思う。

私は茶道を習っているが、たまたま読んだ本で無茶という言葉の意味を解説していた。
茶がないという無茶は、この本では茶道には色々と難しいルールがあり、お茶をもてなすための決まり事がきちんとある。しかし、もしこのルールがなく、なんでも良いからお茶を提供しても良いとなったらどうなるのかを想像して欲しいと。全く無秩序なものになってしまい、茶道そのものをが成立しなくなる。

そうなると、お茶でお客様をもてなすことはできなくなる。なんでも良いとなると自分のやりたいようにして、それが相手にとって気持ちの良いものかどうかは計れなくなる。
こういう状況を茶のルールが無い。無茶というそうだ。

確かに茶道の所作は覚えるのに時間がかかる。特に頭で覚えるのではなく、体で覚えなさいといつも先生から指導を受けている。
最近、やっとなぜこういう動作をしないといけないのかが少しづつ分かってきた。そしてなるほど、この動作がいかに合理的なのかも理解できるようになってきた。時間がかかる。

茶道を習う人はどんどん減っている。確かに簡単に始めるにはハードルが高い。また始めるとすぐに入門、御免状やらとお金がかかることもある。そしてやはり少しお茶が楽しくなるのには時間がかかる。ルール、決まりごとを覚えるのが大変だからだ。またいろんな教養も求められる。
そうなると続ける人は減ってしまう。

最近、簡単にお茶を楽しむ方法を提案する企業も出てきた。私は良いことだと思う。
しかし、お茶の心を伝えることが一番大切だと思う。茶道の本質は禅であり、お茶を振舞うことでは無い。

でもどうやれば伝えることができるのだろうか。

それは無茶という言葉と茶道にはこんなつながりがあるんだということを知らせることから始まるのかもしれない。

ルールの無い世界には未来は無い。でも時代に合わせたルールが必要であり、修正していくことも大切だ。

つまり、これまでの常識をどう捨て去り、新しい常識を作るかだ。

そのために、自分の心にある常識をまずぶち壊すことから始める必要がある。

withコロナには新しい常識が必要なのだから。


強い気持ちを持ち続けるにはどうすれば良いか

また、コロナ感染者の増加が世界的に起こっている。また、世の中が混沌としている気がする。

しかし、日本を見ると感染者はそう急増はしておらず、Go to travelの影響もあり、日本経済は大丈夫だと思ってる人は多いのではないか。

しかし、私はそうは思わない。今回の経済状況はリーマンショック以上であり、今はそんなに酷いとは思っていないと感じてる人は意外に多いのではないか。

特に中流階級と言われる大企業やIT関連企業にお勤めの方はそうかもしれない。しかし、今からが経済改革というか、経済モデルの大変化が始まりのだ。今の経済モデル、社会システムは崩壊する。

私の友人は今から戦国時代の始まりだと言うが、確かにそうかもしれない。

こういう時に大事なのは、まず自らが強い気持ち、自信を持つことだ。

強い気持ちを持つ事で、自分の中にパワーが生まれる。そのパワーを持つものが集まることでさらに大きなパワーになる。

NHK大河ドラマ、麒麟が来るを見ていて、感じるのは自分に自信を失う事が最も危険だという事。そして誰と組むのかも大事だと。あと、大事なのはお金儲けを目的にしてる武将、貴族、官吏はことごとく破滅している。

強い気持ちは自分が生きている意味をしっかりと持つ事だ。周りからどう思われているかではなく、自分が何に価値観を持つかだ。

私の気持ちを強く持つ方法の一つは何でも良いから人から感謝されること、褒めていただける事を素直にする事だ。

しかし、私も時々、心が折れそうになることがある。そういう時こそ、家族、友人が必要だと。だからこそ家族、友人を大切にすることか今一番大事ではないかと。

自分の友人の棚卸しというか、見極めをするには絶好の機会のように感じる。

間違いなく、来年は戦乱の世になる。その時にこそ、この社会に役に立つ事を始めたいと思う。

これからはオンラインとリアルをどうつないでビジネスをするかしかない

教育も小売もオンラインだけでは成立しないことははっきりした

コロナで自宅隔離生活を余儀なくされた3−6月は教育の現場ではオンライン授業へと、みんなが流れた。しかし外出禁止解除が解けると、やはり学校の現場では生徒も先生もリアルの教室に戻り、オンライン教育、いわゆるEdTech事業は陰りを見せ始めた。


確かに自宅で自分のペースで学習ができるオンライン教育は効率的だ。ただ、多くのエドテック事業は双方向ではなく、オンラインでプログラムに沿って学習する自習である。チューターに質問をチャットで聞くことはできるが、これも双方向とは言えない。

みなさんも経験があるだろうと思うが、ZOOMなどのオンラインセミナーを受講しているとどうしても集中力が続かない。双方向ではなく一方通行の授業で、みられていないのが分かると集中して聞くことは難しい。
私もコロナで自宅謹慎中にウェビナーのセミナーをいくつか受けたが、あまり面白くないセミナーでは、テレビを見たりメールをチェックしながらが普通であった。
これではセミナーの中身が頭に入ってこない。

オンラインの教育もそうで、一方通行の授業を受けるだけのアプリなどはどうしても継続して受け続けるのが難しい。いつでもできるという余裕が全然しなくなるのだ。

一方で双方向の授業であれば、緊張感が出てくる。また双方向のやりとりで興味も湧いてきたり、少人数での意見交換などがあればさらに楽しい知的空間となる。

リアルの教室という空間は、少人数であればまさにそういうところだ。仲間がいて、その仲間との競争関係やコミュニケーションがやる気を生み出す。それをうまく引き出すのが先生の役割なんだと思う。
リアルの良さを今回、オンラインでの授業を受けた子供たちは実感したのではないだろうか。

つまり、リアルでの人間と人間の触れ合い、切磋琢磨が絶対に必要なんだと。

このリアルが絶対必要なのは小売の現場でもそうだと思う。
例えば、今回スーパーやホームセンターが絶好調なのは、巣篭もり消費ということもあるが、やはり実際の目で色々な商品を見て選びたいという気持ちがあるのではなかったかと。

オンラインだけで消費を完結することは必需品であればそれでいいかもしれない。しかし、買い回り品、専門品を買うことは商品そのものを買うことによる価値の獲得だけでなく、買うまでのプロセスを楽しむこともある。そしてその中では、販売員との会話やお友達、家族との会話によるコミュニケーションも含まれてくる。

これこそ、双方向のコミュニケーションでなければいけないのである。

今、百貨店では外商でオンラインによる双方向の外商販売を強化しているようだが、これは結局はZOOM飲み会と同じレベルなのだ。
自宅謹慎中であれば、それで満足できるし、遠い地域に住んでいる人にとってはとてもありがたいと思える。
しかし、今、ZOOM飲みを誰がそんなに頻繁にやっているだろうか?やはりリアル飲み会に勝るものはないと思っていないだろうか。
しかし、海外の友人とZOOM飲み会は続いている。これがコロナの恩恵だと思っている。

教育でもズームで双方向でやる授業もやはりZOOM飲み会と同じレベルなのだと思う。そこに工夫が必要なのだろ

デジタルの力を使いながら、双方向でよりヒューマンタッチで、リアル感を持ち、仲間と切磋琢磨する環境を作るというのは教育も小売の商売も同じだなと思う今日この頃である。

今でもZOOM飲み会が大盛況なところのノウハウがヒントになるかもしれない

ニトリの過去最高益に思う

これは日本にとっていいことなのだろうか

ニトリの中間決算が発表され、巣篭もり消費の追い風もあり過去最高の利益を達成したらしい。来年度もこのペースで収益を向上させていくと似鳥社長は自信満々であった。

さてこのことを私たち、日本人は喜ぶべきなのか、どう考えればいいのだろう。
マーケティングの観点からいうと、顧客が欲しいものを提供する企業が売上を伸ばすことは当たり前だ。特に今の将来不安で節約志向になり、またお家での生活が増えている中で、高品質低価格のホームグッズは需要が高い。

ニトリの商品は確かに安い。しかし、その商品を一つ一つ見ていくと、決してお値段以上のモノばかりとも言えない。先日、エアウイーブのマットレスに非常によく似た敷き布団パッドをニトリで購入した。値段はエアウイーブの半分程度であった。
私は自分の家ではエアウイーブを使用しているが、最近大阪の実家に泊まることが増え、実家の敷き布団では寝にくいと感じたので、実家近くのニトリで同じような敷きパッドを見つけたのだ。

見て触った感じは同じようであり、値段も安く、購入したのだが、やはり寝心地は全然違っていた。良いものにはそれなりの値段の価値があるだなと実感した。

価格は確かに全ての消費者にとって大きな武器と言える。しかし、やはり使って感じる価値、品質に差が出るものは、後から大きな後悔というかショックを受ける。

良い例がアマゾンや楽天などの通販サイトで安物買いの銭失いを経験した時だ。
誰しも、通販サイトで安くて良さそうに見えるものをポチッとして衝動買いした経験があるだろう。そして届いてから想像していたものとは違い、そのままゴミ箱行きになったケースもあるのではないか。これは値段そのものが非常に安く、騙されるのを覚悟で買うというこちら側のリスクを十分考えての購買行動だ。
これは宝くじ、ロトを買うようなものだ。まあ外れても仕方ない。この値段で良いものが手に入ればラッキーと思えるからだろう。

このような宝くじ的買い物は通販サイトではよく見られる。
しかしニトリの場合は、実際に店頭でものを見て買うのである。だから、キッチン用品やホームグッズなど手にしてその品質が確認できるものは問題ないかもしれない。
しかし、実際に購入して何度か試さないとわからないものは難しい。

私の経験ではベッド、デスクなどの家具はイケアと同じで、デザインなど表面的には良いように見えるが、結局は数年で故障する可能性が大ではないかと思う。
昔、米国に留学した時に多くの生徒がイケアで家具や生活用品を揃えていた。見た目は良いが、すぐに潰れる。でも彼らには数年使えればそれで良いのである。学生時代に使えればそれで良いと。
家具も消耗品なのであった。割り切って買っていた。

若い世代にとって、インテリア家具も消耗品だとすればそれもありなのかと感じる。
しかし、アフターコロナではより環境にも配慮し、マクドナルドの紙袋のようにもらった瞬間にごみになるという使い捨てをやめて、捨てずに長く使うという考えがこれからにはぴったりだ。また家にいる時間が増える時こそ、生活クリオリティをあげるべきだと。

だとすると、これからの家での生活を大事にするならば、生活用品も良いものを長く使うという考え方が大事なのではないだろうか。

この考えに立つと、ユニクロ、ワークマンなども同じカテゴリーに入るかもしれない。
良いものは値段は高い。でもそれを長く使うことで、結果的には経済的にメリットのある暮らしができるのではないかと。いわゆるヨーロッパ型の消費スタイルだ。

マーケティングとはお客様の気持ちになり、その人がもっとも幸せになる生活スタイルを提案することではないだろうか。

だとすると、単に値段が安いということだけにフォーカスするのではなく、もっと生活そのものを考える提案が必要な気がする。高くても品質の良い、長持ちする商品をどう提案していくかが小売業には問われている。

そういう意味では私は無印良品が好きだ。彼らには哲学がある。ウエアでもあまり流行に左右されず、無印らしいシンプルでモダンなデザインになっている。

昔、20代のころ、コムデギャルソンが好きでよくスーツを買っていた。コムデギャルソンには」黒のスーツしかなかったけれど、毎年その黒の色が微妙に違っていた。また微妙にシルエット、デザインに変化があ利、それにとても魅了されていた。なんとなく、コムデギャルソンの世界観が好きだったのだ。

同じようなモノばかり着ていてはつまらないし、飽きてくる。でもその商品に哲学があれば満足できるのではないかと。

今の商品で哲学を感じるものは少ないように思える。哲学とは企業理念ということになるかもしれないが、そういうはっきりとしたメッセージのある商品、企業がこれからの時代には必要なのかもしれない。

どんどん商品を安くすることは一見良いように見えるが、物価は上がらず、デフレが続き、日本の経済はいつまで立ってもよくならないような気がする。

まだまだ親は子供に最大公約数の教育をしている

良い大学出て、良い会社に入っても将来は約束されないけど、やはり東大、京大に行かせたいのが親の本音か

今の日本では昔の常識は通用しないのは大体親世代は理解している。日本の経済そのものが右肩上がりでいくとは思えないし、昔の日本の電気メーカーの強さは今はもうない。どんなに有名な企業に就職したところで、将来が安定する保証はどこにもない。都市銀行や鉄鋼会社がその例だ。

この認識は今の30代から40代のお父さんお母さんはしみじみと感じているだろう。
だからこそ、自分の子供には良い会社に入るための教育ではなく、自分の子供の未来の可能性を最大限に広げられる教育を望んでいるように思える。

ショックだったのが、40代の小学生を持つお父さんの話だった。私が小学生だった頃からすでに50年近くが経っている。だから相当小学校の雰囲気は変わったのだろうと思っていた。だが、彼曰く、私の時代、彼の時代と学校の雰囲気は全く変わっていないと。結局、4年生になるとみんな中学受験を意識して、塾に通わせるようになる。それも関東ではSAPIXと四谷大塚だ。まず、ここに入れるかどうかがスタートなのだと。

いわゆる過酷な受験戦争のスタートだ。東京では小学校受験ですでに幼稚園から塾がスタートしている。私の時代には小学校受験はほとんどなく、中学校受験もほんの一握りであった。
今は、中学校受験は東京では当たり前になっている。

しかし、ここでも教育の二極化が進んでいるようだ。ある一定の所得層以上は、必ずこの中学受験をさせている。そして高所得層は小学校からインターナショナルスクールに通わせたりしはじめている。お金があればあれば良い教育を受けれるというのは現実だろう。そして低所得層は公立中学に行かせるしか選択肢がない。そして同じことが高校でも起こる。

今回、この富裕層はさておき、中流層以上では、最初に話をした教育のゴールは東大、京大ではないと理解しつつも、親としては子供に最大限の選択肢を与えるためにはできるだけ上位の大学に行かせたいと思っているようだ。

これは事実であり、どうしようもない現実だと思う。
しかし、一方で東大、京大に入るだけでなく、その子供たちには色々な知識を身に付けて欲しいと考えている親たちが多いのも事実だと言える。

私の友人が運営するカルチャーセンターでは小学生の習字、ソロバンが大人気だそうだ。これらが上手くできても東大には入れない。でも人間としての教養を身につけさせたいという親の気持ちの表れだ。

またプログラミング教室やスポーツ教室も盛んだ。

しかし、最大公約数的に教育してもなかなか成果は出ないのも事実だ。
戦略を考える時にもっとも大切なことは、「何をしないかを決めること」だ。

選択と集中という言葉を戦略論ではよく聞かれる。
自分の置かれている環境の中で、自分の強み、弱みを理解した上で、どこに絞って戦うのかを決めることが戦略の基本だ。

例えばスポーツでいえば、自分の身体能力に合わせてもっとも適したスポーツに打ち込むことが上達の近道だ。
実際、私が昨年手掛けたバイリンガル幼稚園では毎年フィジカルテストを行う。そこでは、東大の先生監修の元、一人一人のデータに基づいて最適なスポーツを一人一人に提案することができる。
このテストはものすごく評判がよく、これを目当てに入園した家族もあると聞く。

このように親としては、子供の将来にできるだけ未来の可能性を幅広く与えながらも、これをやれば人よりも優れた才能を開花させることができる分野を探しているように思える。

昨日、テレビを見ていると何でも当てる占いの先生が芸能人を占って、バンバン当てていた。
私に小学生の子供がいたら、その占い師に自分の子は将来に何に向いているのかを聞いてみたいとふと思った。おそらく、ほとんどの親は自分の子供が何に向いているのかがわからないのだ。
しかし、占いに頼って子供の将来を決めるのはどうかとは思うが。

そうすると、いろんなことをさせて、興味を持つこと、成果の出たことに集中させようとするのが親の気持ちだ。

私は会社にいるとき、社内教育でいつも言っていたことがある。
これからのグローバル社会ではまず語学、特に英語が話せなければいけない。そして少なくとも自分の国の文化や特徴を英語で説明できなければ海外では日本人として認めてもらえないと。

今は英語は当たり前、もう一つの外国語、中国語が必要だと感じている。

そしてビジネスリーダーとしての知識だ。
戦略、マーケティング、統計、会計、ファイナンス、マネジメント、ネゴシエーションなどである。
いわばMBAで勉強することばかりだ。

でも一番大切なのはMBAで知りあった人との繋がりだ。私のMBAの経験でもこれが一番の財産になっている。

東大、京大を出ることに意味があるというよりも、やはりその時に知り合った人間関係が最高の宝物なのだと思う。

私見だが、日本という狭いフィールドだけで将来活動するのであれば、やはり東大、京大が目指すべきゴールのように思える。

しかし、将来、グローバルに活躍したいなら、東大、京大ではなく、私は間違いなくシンガポール国立大学に進むべきだと思う。

これからはアジアの時代だ。アジアで人脈を作るなら、シンガポール国立大学しかないと思う。

フィールド、自分の目線というか視野をどうおくかだ。これは小学生には無理だ。

だからこそ、お父さん、お母さんの視野がどうなのかが問題なのだ。

自分の子供の将来を日本ではなく、地球レベルで考える人間に親がならないと、子供はチャンスをなくすかもしれない。

結論は子供の将来はお父さん、お母さんの視野の広さ、目線の高さで決まるということだ!

頑張って、お父さん、お母さん!!

これからの教育はオンラインかリアルか?

教育って結局は人間関係づくりになるのではないのか

今日テレビである私立大学が今年度初めてのキャンパスでの授業をスタートしたことを伝えていた。
1年生の皆さんは場所がわからない人もいたり、また初めてクラスメートとリアルで会って興奮している様子がとても感じられた。その中である生徒はリアルだと自分のモチベーションが全然違うと。私はやはり若い子でもそうなんだと思った。

これからの教育はどうすればいいのだろう?
例えば、先進的な取り組みをしているミネルヴァ大学では固定キャンパスを持たず、4年間を通して全世界に生徒が移動しながら授業を受けるが、授業そのものはオンラインだ。しかし、生徒たちはリアルでは世界中を移動し、寮生活を体験をしながら、勉強を続けている。
https://ix-careercompass.jp/article/822/

オンラインの良さはどこにいても、授業をいろんな人から受けることができる。
例えば、福岡で進められている子供のためのプログラミング授業は授業はオンラインでシアトルからアメリカ人のエンジニアが英語で教えている。授業を受けているのは福岡の飯塚市の小学生だ。
飯塚市と言う片田舎の小学生が、シアトルのトップエンジニアから直接プログラミングを教えてもらえる、しかも双方向でつながっているのはオンラインだからこその利点だ。
でも授業は教室で受けている。なぜなら、英語の分からない小学生もいるため、チューターとしての大人がヘルプが必要だからだ。またリアルの場所にいるからこそ、友達との交流が進み、また切磋琢磨しようとする。健全な競争環境がないとダメだ。
https://kidscodeclub.jp/

私がシンガポールでプログラミングスクールをやろうとしていた昨年も考えは同じだった。
授業は個々人がオンラインベースで自分の理解度に合わせて自分のペースで進める。学校に先生はいない。いるのはチューターだけである。でも、もっとも大事なのは同じ学生の存在だ。彼らは友達でもあり、競争相手でもある。同じ場所で勉強しながら、お互いが分からないところを教え合い、切磋琢磨することでモチベーションが上がっていくのだ。
そして苦しい時間を共有したことで親友関係が生まれてくる。
オンラインの友達関係でこのような親友関係が生まれるのは非常に難しいような気がする。

教科書は今や文字から動画になりつつある。そしてコンテンツもいろんなものが溢れているし、ネットであればどこからでも集めることができる。
その意味では、教材は学校に行かなくてもどこでも手に入るし、それを自ら習得できる人もいるかもしれない。

しかし、そのためのモチベーションをどう上げていくのかは、オンラインでは難しいような気がする。
モチベーションの源は人との関わり、競争ではないだろうか?

今回のコロナ禍で仕事も勉強もオンラインの生活がある意味定着してきたが、これはどこまで生活を変えるのだろうか?
100%オンラインで仕事のできる環境になったと言う人が結構出てきているが、マネジメントの観点から言うと、どうその人を管理し、またその人が次の時代の組織を引っ張っていくリーダーとしてどう育つための環境が用意されているのだろうかとふと不安になる。

私たちの世代のように、もう十分にリアル環境のなかで、マネジメント、人間関係で悩み、無駄な会議をたくさんしてきた人間にはオンラインで利点はとてもよくわかる。
しかし、全てがオンラインで業務を行う会社の社長、リーダーはどう部下を把握し、管理し、モチベーションを上げて、会社をやめないようにすることができるのだろうか?人間的な触れ合いは機械には必要なくても、人間には必要なのではないか。

私にはオンライン飲み会になるような気がしてならない。
オンライン飲み会は普段会えない場所にいる友人と気軽にノミニケーションができると言うことを再発見した。またちょっと時間のない時にミーティングをちょこっとやるのにも有効だ。

しかし、新規事業を進めていこうとする時にオンラインだけで知り合った人と、そのままオンラインだけで全てが進むとはとても考えられない。

会社に長年いて思ったことは、会社も従業員教育がベースなんだと。
どう新人を育てて、戦力になってもらい、利益を上げれる人間にしていくことが大事なのだ。

そう考えると、子供から大人まで教育というのは同じような気がしてならない。

大事なのは、オンラインで紙の教科書、DVDでは得られない情報、ネットワークをオンラインによって吸収しながら、リアルの仲間とどう切磋琢磨するかではないだろうか。

オンラインとリアルの融合が大事なんだが、最後は人と人の繋がりこそが最大の財産になる。それはオンラインでは得ることはできないのではないだろうか。